昭和46年行政訴訟…懲戒処分取消請求事件(63)


◆S46.10.15 東京地裁 昭和33(行)103 懲戒処分取消請求事件(63)◇

◆S46.10.15 東京地裁 昭和33(行)103 懲戒処分取消請求事件(63)◇

あり、交渉に対して冷ややかな態度で終始した。質問に対してはまじめに答えず、ことごとに、組合は反対であり、話し合つても意味がないという趣旨の発言をした。
ことは教育の問題であり、見解が食い違えばこそ交渉をする意味があるはずである。しかし、四月実施の政治的至上命令のもとにあつた被告にとつては、交渉というものはまつたく無用の存在でしかなかつたのかも知れない。交渉を通じての被告の態度は従来の交渉におけるそれとはまつたく異質のものであつた。
(B) 都教組のたたかいの方向は、常に交渉の進行状況に応じ、被告の態度に対応して決定されていつた。
すなわち、昭和三三年二月二八日の第二八回戦術委員会に提案された第二次闘争スケジユールは、その後のたたかいに重要な意味をもつものであつたが、この提案が可決され、それとともに臨時大会を開催する旨が決定されたのは、同日開かれた第一回交渉の席上における丁教育長の同年三月中に勤評規則を制定する旨公言する態度と、当時伝えられていた文部省および被告の三月制定・四月実施の態度とを反映してであつた。
そして、休暇戦術の規模についても、その後次第に真剣に考えられ、交渉における被告の態度を反映し、同年三月一一、一二日と連日開かれた戦術委員会においては、いつせい休暇の方向へと全員の態度は期せずして向うのであつた。勤務評定の実施を政治的立場から強行しようとする当局側の態度が、都教組組合員をしていつせい休暇闘争を決意させたのである。
そのころまでは、本部から分会に至るまで、精力的に取り組まれていた勤評研究会などの学習の成果と昭和三二年秋から展開されていた日教組の全国統一行動に参加することとによつて、都教組のほとんど全部の組合員は、勤務評定反対のスローガンのもとに完全に結集していた。昭和三三年三月八日の晴海ふ頭における教育危機突破中央大会は、教員の怒りを反映し、都教組に結集した圧倒的多数の教員が参加する画期的な大集会となつた。
こうした教員の怒り・行動に示された盛り上がりは、さらに、同月下旬に勤評規則の制定が不可避であると伝えられ、また、第一回ないし第三回の交渉にみられる被告の不誠意が示されたとき、同月二〇日の都教組臨時大会における休



  • おすすめ

    • -
    • -


  • ◆昭和46年行政訴訟 1 2 3 4 5 6 7 1 2 3


    2011年10月:更新しました。やっと涼しい秋となりました。