◆S46.10.15 東京地裁 昭和33(行)103 懲戒処分取消請求事件(62)◇
つた。
それは、従来とも、被告と都教組間の主要な問題は、交渉によつて解決されていたからである。たとえば、昭和二七、八年当時、東京都の職員に勤務評定制度が実施されようとした際、知事部局の職員については実施されたが、教職員については、教育上の諸問題が交渉で問題となり、結局、実施されないで終つたこともあつた。また、近くは、昭和三〇年六月から約半年、二十数回の交渉の末、実質的に骨抜きにすることができた学校教育法施行細則闘争の経験もあつた。
そこで、都教組が迫まり来る東京都における勤評規則の実施を予想し、はじめてその闘争方針を打ち出したのは、昭和三二年一〇月一〇日の第一〇回定例委員会においてであつたが、右の委員会および翌昭和三三年一月一七日の第一六回定例委員会において決定した路線は、交渉を重視し、これによつて局面を打開しようとするものであつた。
(A) しかしながら、政府・自由民主党の強い圧力のもと、政治的意図に基づき勤評規則の実施を決意し、しかも、全国の都道府県教育委員会の先駆けとして勤評規則を立案し、実施しようとしていた被告は、交渉に臨む態度も従来とまつたく異なり、この点において都教組の態度と対称的であつた。
都教組は勤評規則の実施に絶対反対の基本態度をとつてはいたが、交渉が話合いである以上、局面を切り開き、平和的に解決するために、勤務評定制度のもつ問題点を指摘すると同時に、早くも第二回交渉の席上、審議機関を設け、これにはかることを提案するなど、きわめて柔軟な姿勢をもつて臨んだ。そればかりでなく、都教組は、昭和三三年三月の段階においては、組合員からの強い要望があつたにもかかわらず、事態が急を告げた同月一九日の第四回交渉に至るまで組合員の動員を行なわず、同年四月の交渉再開後もしばらくの間は動員をせず、また、発言者を特定し、静寂なうちに交渉が継続されるよう努めた。こうした中で、被告は、同月一九日に至り、交渉の打切りを宣言してきたが、都教組は、交渉人員を限定し、交渉の期限を限つてでも、なお交渉を継続することを提案した。
これに対し、被告側は、同年二月二八日の第一回交渉の席上から、丁教育長が勤評規則は同年四月から実施すると述べるなど、きわめて挑戦的で


